ピンポンゲ−ムをやってみて、そこそこ面白いと思いましたけれど、ファミコンはさらに画期的でした。
パソコンやソニーもやっていたMSXは八ドット単佐で描画していきますが、ファミコンは一ドット単住で画像が描ける。
凄いと思いましたね。
ソフトもドンキ−コングやロ−ドランナーなども面白かったけれど、私の興味はむしろハ−ド的なことにありました」。
だからシステムGとファミコンを合体したらどんなに面白いか、システムGとの謹遁の場で、思ったのだった。
ユーザーに受けるのは、MSXではなくファミコンの方だと子供が教えてくれたソニー入社はやんちゃ組の代表としてKはしかし、単に技術者としての興味から、合体を思い付いたのではない。
何か面白いことに出会ったら、「いかにしたら、その技術をビジネスに結び付けるか」に、すぐ思いが至るのが常である。
それはKの生い立ちと、大いに関係があろう。
Kは一九五〇年に東京に生まれた。
久Tという珍しい名前は、熊本にその地名を持つ町がある。
父親のK氏は熊本で生まれた後に家族で台湾に渡り、台北帝大を卒業し、台北市で親戚と新高堂書底という台北で一番大きな本屋を聞いていた。
敗戦で帰国、東京・江東区に居を構え、がないという状態からスタートした仕事だった。
小学生のKも家業の町工場を手伝うのは当たり前だった。
朝五時に起きて、夜は一一時まで家族中で仕事に明け暮れた。
小学校から帰ってからは御用聞きに、印刷の手伝いに配達にと、子供ながら、毎日汗まみれになって働いた。
仕事が終わってからは寝るのが精一杯だった。
これが毎日統いた「長期休暇をとって、家族全員で旅行するなんて、夢のまた夢でした。
商売人に休みはないが、その代わり定年もないから一生働けるだけ働けるよと、親父はいつも言っていました」。
身体が弱かったKだが、小学校で体育以外は、一科目を除いて全科目が五だった。
一科目というのが社会で、四だった。
「君は、協調性がないと担任の先生に言われた。
自分だけはかと違うのかとムカッときましたよ」。
しかしこの指摘は、ある意味で正鵠を射ているところもある。
後にプレイステーションの事業化に当たっても、この性格が、事業を進める上でどれほど牽引力になったか計り知れない。
いや協調性がないというより、一匹狼で自信があって、どんな事態になろうとも、これだと思い込んだことは必ずやり遂げる意志の強さ、といったほうが正確だろう。
「親父は日本という国をまったく信用していませんでしたね。
銀行や郵便局に預金せず、で持っていました。
日本の社会のシステムが信用できなかったんですね」。
Kが大学で研究室に進んだ頃、武次氏が病気で倒れた。
当然、Kは家業を継ごうと決心したのだが、武次氏は、「この商売は俺一代で終わりだ。
おまえはもっと先を見て、いちぼんやりたっていことをやれ。
引き揚げだから内地に頼りになる親戚や伝手はいないが、金なら何とか貯めた。
医者でも弁護士でもいいぞ」と言った。
その時武次氏は、Kがなにをやってもいいほどの資産を、作ってくれていた。
そして、「もう、お前は一人前なのだから、親の商売にとらわれずにこれからは好きなことをやれ」と言ったのだ。
Kは自分が商売人の息子であることを誇りに思っていた。
汗して働いて、儲けるのは当たり前という感覚だった。
俺は絶対にサラリーマンや公務員になどならない。
人に使われるなんて、きっと面白くないだろう。
そんなKだから、ものごとをすぐ商売に結び付けて考えるのも、当然のことだった。
それは生まれながらの、そして育まれた中での自然な発想であった。
Kは卒業に当たって、自分でビジネスをやりたいという意欲を強烈に持っていた。
しかし、大学卒でいきなり仕事を興しでも、すぐにはモノになるわけがない。
今でこそ、学生ベンチャービジネスなどが話題を集めているが、Kが大学を卒業した七0年代中期には、まだ、若人がベンチャーに走るような風潮はなかった。
「やはり経験は必要だ、一旗上げるのはそれからでも遅くはない」とKは思った。
「それより俺は何が好きだったかな?何が人一倍得意だろう。
やはりエレクトロニクスやコンピュータだ。
もしこれがそのまま仕事になったら、毎日毎日が楽しくてしょうがないだろうな。
まず好きな技術を磨き、どんどん知識を仕入れよう」。
以前から気になっていた会社があった。
ソニーである。
今でこそ、ソニーは学生の人気ナンバーワンだが、当時、特に学生の注目度は低かった。
でも、道すがらに見かけた五反田の本社や横浜・保土ヶ谷の中央研究所、井深大氏(ソニーの創業者)のトランジスターの話などで、ソニーには憧れを持っていた。
古い日本の会社と違って、技術で戦後急速に頭角を表してきた会社だ。
ここなら好きなこともできそうだし、何より学歴や閤閥などなさそうなのがいい。
エンジニアとしての経験を磨くためにも、きっとすばらしい先輩たちがたくさんいるに違いない。
そう考えたのである。
そこで指導教授にソニーを受けたいと申し出ると、「君はソニー向きだよ。
ほかでは苦労するだろう。
あそこは君にはいいよ」と即座に賛成してくれた。
他の研究室の学生の多くが公務員、電電公社(現・NTT)や重電メーカーを志望する中で、よほどの変わり者しか弱電メーカーには行かないというのが、当時のKの周りの就職状況だった。
まして、戦後生まれのソニーなんか、誰も見向きもしなかったのだ。
Kも変わり者だった。
Kのへそまがりぶりが際立っていたのは、ソニーしか興味がなかったことだ。
早速ソニーに応募して、すぐ内定を取ってきた。
この時の武次氏の喜びょうは、それまでKが見たこともないものだったという。
何も就職の手助けはしてあげられないと思っていたのに、こいつは一人でソニーに入ったのかと驚いた。
当時の学生人気ランキングでは、一位−三菱商事、二位〜三井物産などで、ソニーは五O住程度のものだった。
でも、「財閥やエスタブリッシユメントではないから、父は喜んだんです。
いわゆる伝統的な,内地の会社。
じゃないからですよ」。
それで安心したのか、Kがソニーに入社して五年後に、武次氏は逝った。
Kは七五年にソニーに入社した。
当時、石油ショック後の不況で、ソニーも採用ゼロの方針を最初は取っていた。
しかしまったく採用しないと将来に禍根を残すとの理由で、例年とは異なりずっと少ない人数を採用することとなった。
その中の一人がKだったのだ。
皆、二癖も二癖もある個性的な連中ばかり。
中でもKは、同期のまとめ役として、すぐにリーダー格になった。
「やんちゃ組の代表でした。
会社から見ればブラックリスト組の代表です」。
初めてソニーに出社して、驚いた。
ほとんど仕事をしていないのである。
ちょうど春闘のストライとどろキの真つ最中だった。
集会が聞かれ、マイクの声が御殿山(東京・品川)に轟き、赤旗が舞っている。
Kは自分の生活の体験から、人は働くべきものであると思っていたのに、働くのが悪であるとは、天地がひっくり返ったように驚いた。
ずいぶん違うところに入ってしまった。
何てとこに来たのかと、あきれ果てた。
だが、気持ちの切り替えも速い。
自分は、そんな周りと関係なく、思いつきりエンジニアとしてやりたいことをやろう。
ともかく働くことだ。
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